丸竹の歴史

丸竹の歴史

創業大正13年。梅樽から梅干しそのものへ。
届けたいのは“ごはんの湯気と笑顔を味わう食卓”

丸竹が創業したのは、関東を未曾有の災害「関東大震災」が襲った翌年の大正13年。初代の丸山竹次郎が、林業に従事する傍ら梅の木樽を製造したことから始まります。

当時の丸山家は、みなべの土地を開墾し梅畑を始めた農家のうちの1軒でした。自家農園で採れる実梅を使った梅干しの評価は高く、軍にも納めていたほどです。

大正14年に生まれた竹次郎の長男・久雄が27歳となる昭和26年、父から継いだ丸山製材(梅の木樽等製造)を営む傍らで、自家農園で採れる南高梅梅干し(白干)を製造販売。

4年後には、自家農園の梅干し(国産)と一部に台湾梅干も加え、全国の量販店で販売を開始しました。当時は、自社トラックのほか鉄道貨車でも輸送し、住み込みも含め30名余りの従業員を抱えるほどの盛況ぶりで、丸竹の梅干しは全国の皆さまに親しまれていました。


創業者 丸山竹次郎(写真・左)

創業者の竹次郎は、商売が好きで、「早起きは三文の徳」と、つねに笑顔を絶やさず商いをする人物でした。
行商に訪れた富山の薬屋さんが旅館の宿泊代が払えずに困っていると、竹次郎が肩代わりするほど、人のため、社会のために貢献した人物です。今も丸竹には、当時薬屋さんからお礼にと置いていった「六神丸」が残っています。
その心意気は今もなお受け継がれており、梅干しを通して「食卓に笑顔を」の精神で日々梅干しづくりに精進しております。

丸竹の沿革

大正13年

丸竹商店 初代・丸山竹次郎33歳。林業に従事し、紀州備長炭製造販売。丸山製材を営み、梅の木樽を製造。

大正14年 丸山家の8人兄弟の長男として2代目・久雄、誕生。
昭和26年

久雄27歳。2代目として父から継いだ丸山製材(梅の木樽等製造)を営む。自家農園で採れる南高梅梅干し(白干)製造販売。

昭和29年

上南部小学校講堂建築を請負。
一方で、自家農園の梅干しと台湾梅干を全国販売。

昭和39年 生姜製造販売開始。
昭和50年 屋号を丸竹食品に変更。
昭和51年 事務所、第一倉庫新築。
昭和60年8月 株式会社丸竹食品設立。紀州南高梅 調味梅干12%の製造を開始。同年、通信販売も開始する。
昭和61年 本社、第二倉庫新築完成。
平成7年 丸山久雄の次女・山縣久美子が37歳で3代目代表取締役に就任。梅干業界初の女性のみの会社としてメディアに取りあげられる。
平成14年
  • 株式会社 丸竹に社名変更。
  • 調味梅干8%の製造開始。
  • レストランの業務用販売をスタートし、各店舗様のこだわりのお料理に合わせたご提案を開始。(現在のハチミツ漬け梅ごころ、かつおの旨み千紅梅、紫蘇の香りしそ漬、かつおと昆布のダシ梅娘等)のちに主力商品として確立し、販路拡大するきっかけになる。
  • 冠婚葬祭返礼品の販売を開始。
平成29年 調味梅干リンゴ酢使用塩分6%の製造を開始。